<参考資料>
信南自由大学趣意書 –1924(大正13)年10月
現在の教育制度によれば、学習能力さえあるものならば、小学から中学、高等学校、大学と、何処までも高い教育を受けることが出来る様になって居る。此の学校系統は、早く既に十七世紀に於いて、コメニウスの創建したものであったが、彼の創建の趣旨とするところは、個人の稟賦を何処までも完全に伸張し、われわれの持つただ一つの要求も、その儘に萎縮させてはならないという事であった。然るにその後各国の制定した学校系統は、此の肝要なる趣旨を忘れ、その創建した学校系統の形式だけを無批判的に踏襲する傾向を示した。いかにも此の制度の形式は、すべての民衆に教育の機会を与え、最高学府としての大学はその門戸を何人にも開放して居るではあろう。併しその教育を受ける為には、人は莫大の経済的資力を必要とする。その莫大なる教育費を持たないものは永遠に高い教育を受ける機会を持たず、結局高い教育は有資産者の持つ特権となるのである。
いまや各国の教育は、コメニウスの学校に帰らねばならぬ必要を直感しはじめた。その結果として、理論的には社会教育の思潮が盛んとなって来るし、事実的には成人教育の運動が前世紀に比類のない発達を示した。そしてコメニウスの学校の本義から言えば、民衆が労働しつつ生涯学ぶ民衆大学、すなわち我々の自由大学こそは教育の本流だと見られなければならぬことが、強く主張せられるに至った。
教育は、僅かに二十年や三十年の年限内に済むものではない。我々の生産的労働が、生涯に亘ってなされねばならぬと同じ理を以って、教育は我々の生涯に亘ってなされる大事業である。教育により自己が無限に生長しつつあることを除いて、生活の意義は無い。随って教育の期間が、人生の中の成る特定の時代にのみ限られ、その教育期間には、人はすべて農圃と工場より離籍することは不自然であると思う。我々は労働と教育との結合を第一に重要なるものと考える。マルクスは、幼年者の労働は必ずしも反対せず、それにより労働と教育とが結び付けられ得るならば、却って悦ぶ可きことであるとさえ考える。自由大学は補習教育や大学拡張教育ではない。
我々の自由大学は、もっとも自由なる態度を以って思想の全体を研究して行きたい。講師の主張には種々の特色があろう。併し教育は宣伝では無いから、我々の大学の教育は、団体として特に資本主義的でも無ければ社会主義的でも無い。それらの批判を、自分自身で決定し得る精神能力と教養とを得ることが我々の教育の眼目である。我々は飽くまでもその自由を保留し得る為に、すべての外的関係とは没交渉に進んで行きたい。我々の自由大学こそは、我々自身が、我々自身の力を以って、我々自身の中に建設した、最も自由なる最も堅固なる一の教育機関である。
※原文のままであるが、漢字の一部と仮名遣いは現在のものに改めてある。
2007年2月12日 池上洋通講師による竜援塾設立準備講演
「いま学ぶことがなぜ必要か!」資料より
2007年2月12日 準備講演会 |
2007年4月29日 1期生1年目第1回講義 |
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